こんにちは。上杉惠理子です。
先日、とある呉服屋さんの催事で、辻が花の訪問着を試着させていただきました。
▼柄を拡大すると…
辻が花(つじがはな)をご存知でしょうか?
辻が花というのは、実際にそういう植物があるわけではありません。
花だけでなく、蝶や動物、水の流れなど、絵模様を複数色を使って絞り染めで描いた作品やその技法を辻が花と言います。
筆で塗り染めた友禅のお花とは全く違い、辻が花はふんわり柔らか。この世とあの世の間にあるような幽幻の美しさとも言われます。
私が辻が花を知ったのは、久保田一竹さんという方を通じてでした。
24歳で きものを着始めてすぐ、着付けを教えてくれた先生が「一竹辻が花展」の図録を見せてくださったのです。
私にとって強烈だったのは、一竹辻が花の作品以上に、久保田一竹という人の人生でした。
この記事では、久保田一竹さんの自叙伝『命を染めし辻が花』から、久保田一竹という人を辿りながら、辻が花の魅力に迫って参りましょう。
幻の染め 辻が花に魅了された人
久保田一竹さんは大正6年、1917年の生まれ。
骨董屋を営むご両親のもと東京・神田で生まれます。
勉強があまり好きでなかった彼は、担任の先生に「学業だけじゃない。染色の道もあるよ」とすすめられ、14歳できものの手描き友禅職人に弟子入りします。
当時は、染めた布を川で洗っていたことから、神田から新宿の落合まで神田川に沿って染め屋さんがたくさんありました。一竹さんは二人の職人の元で修行したのち、19歳で独立します。
そして20歳のときにデザインの勉強で通っていた現在の東京国立博物館で、ケースに入った45cm × 20cmほどの辻が花の小さな布と衝撃の出会いを果たします。
染色に従事するものにとってとにかくそれは魅力的な小裂であった。私はつきものに憑かれたように端から端まで丹念に見ていった。
絞られ、そしてその上に墨による手描きが加えられ刺繍が施され、金箔もしてあった。絞りがほどききれず、麻糸のようなものが残されているのも見えた。
年代が経っているため、絞りも刺繍も全部焼けてその焼けた色合いも部分的に異なり、さらに金箔がわずかに残っているさまは異様な美しさで見るものに迫った。
荘厳で、しかも わび とも さび ともつかぬ凛とした風格の中に、中世の美の結晶を感じさせるものがあった。
久保田一竹『命を染めし 一竹辻が花』より
この小裂が幻の染め 辻が花。
辻が花は室町時代の中期に登場し、安土桃山時代に大流行します。
上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康などが着ていた辻が花の衣装が、実際に現物として今も残されています。武田信玄やお市の方は辻が花のを着ている肖像画があります。
男性女性問わず、辻が花は大人気だった!!
ところが江戸時代になると辻が花は消えてしまいます。まさに、忽然と。
わずかに辻が花の古い布が残るばかり。どうやって染めるのか、情報は何も残っていない。そもそもなぜ辻が花というのか?江戸時代後期に調べた人がいたそうですが、その時でもわからなかった。
一竹さんは、手書き友禅とは全く違う美しさを持つ辻が花の虜になり、いつか挑戦しようと決意します。
ですが、時代は太平洋戦争。
昭和19年夏に召集され、その年のうちに朝鮮半島北部へ。そこで終戦・降伏を知りソ連の捕虜となりシベリアへ送られます。
シベリアでの過酷な日々で心を慰めてくれたものがシベリアの夕日だったそうです。
シベリアの夕日はたとえようもなく美しかった。
日本に残した妻子もまた、この夕日を見ているかもしれない。場所は違っていても皆それぞれにこの夕日を見ているのだろう。
この美しさを辻が花で染め上げることができたら、なんと素晴らしいことだろう。
凛冽の気おおうシベリアのちに夜の帷が降りるその間際、大自然が演じる壮大な一幕は私にさまざまな思いを抱かせしばし茫然とさせるものがあった。
久保田一竹『命を染めし 一竹辻が花』より
自伝にも書ききれない、あまりにも悲しいシベリアでの思い出を抱えながら、日本の舞鶴に戻ったのは終戦から3年後、31歳のときのことだったそうです。
シベリア抑留がどれほど過酷だったかは、他の本などでも見聞きしていたので本当にご無事でよかった…と思います。
復員後、手描き友禅職人として仕事を再開。辻が花の研究に5年間没頭できるだけの生活費と研究費を貯め40歳から辻が花の研究をスタートします。
5年間あれば、なんとかカタチになる、と思っていたそうです。
ところが…5年では終わらなかったのです。
極貧の研究生活からの突破口
辻が花の研究を始めて5年後。
ある程度のものはできたものの、ご自身が満足いく作品には遠く及ばず。ここからさらに先の見えない研究生活が続きます。
蓄えは底をつき、とはいえ一銭もなくなってからあわてて仕事をしようとしても(手書き友禅の)注文など降ってはこない。
当然のように、その後は売り食い生活となった。
一つ、また一つと物がなくなり、気がつけば家も土地もすべて売り尽くされていた。
生活の苦しみとは食べる物のない苦しさに尽きていた。
今日食べる物がないという貧苦を果たして幾人の人が理解できようか。
腹を空かせた子供たちに、食べさせたくても食べさせられぬ悲哀をいったい何人の人が知るだろうか。
シベリアでいかに苦労を重ねたとてそれは比較のできる物ではなかった。
久保田一竹『命を染めし 一竹辻が花』より
久保田一竹さんが辻が花研究に捧げた昭和32〜52年の20年は、日本が高度経済成長で一気に経済が伸びた時代です。
華やかな日本社会から離れ、まるで浦島太郎のように研究を続けられました。
結局、ご自身が納得のいく作品が出来上がり、世にも認められるまで さらに15年。60歳まで大変なご苦労を重ねられたのです…!
自伝やインタビューやいろいろ見てみて、一竹さんの突破口は3つあったと思います。
ひとつめが、中世の昔の辻が花へのこだわりを手放したこと。
これがとてもとても大変で要だった。
20歳のとき博物館で出会った辻が花に魅了され、身を捧げてきたのに、納得いく作品はなかなか出来上がらない。
悩み葛藤している中で…
博物館で出会った数百年前の辻が花が持つ美しさは、時間によって生み出された美しさ。
簡単に再現はできないし、ただ再現するなら真似事にすぎないのだ
と気付きます。
それなら、今の最高の布地や染料で、今の最高の辻が花をつくろうと舵を切ったことが大きな転機になり、久保田一竹の独自の世界観が始まります。
ふたつめが、化学染料を徹底的に研究したこと。
きものの染めは、自然そのままの草木染めの方が素晴らしく、化学染料を下に見る傾向が当時から今でもあります。
そんな化学染料を、一竹さんは徹底的に研究されました。
20年にわたる研究のほとんどは、化学染料との葛藤だったそうです。
独自の染色方法を確立し、多くの人を惹きつけてやまない美しい色を出すことに成功します。
3つめの突破口は、作品を認めてくれる人に自ら会いに行ったこと
60歳になろうとするときに、やっと…ご自身が納得する作品を染め上げることができた。
その作品を、古代衣装研究の権威で辻が花研究の第一人者である学者 山辺知行先生のもとに作品を持って訪ねます。(その前にデパートに持って行ったら、紹介も何もないからと門前払いにあっています)
作品を見る前にその先生はおっしゃいました。
あなたはもともと手描き友禅をやっていたんでしょう?辻が花をやろうなんて大それたことせず、手描き友禅をやりなさいよ、と。
見せる前にこんなことを言われてしまい、一竹さんは動揺し手も身体も震えながら、気力を振り絞って風呂敷を広げて作品を見せるのですね。…そして一竹さんの作品は山辺先生の心を動かした。
山辺先生が認めてくださったことが最初の個展につながります。
辻が花に全てを捧げた久保田一竹の生き方に、人間の潜在能力の高さというか、ここまでできるパワーを持つのかと見せつけられた気がします。
一竹さんのように、一つを真っ直ぐに追求する生き方は、私自身の生き方とは違うと思いますけれど、本当に素晴らしく心からリスペクトしています。
何よりも自分の理想の美を追求し続ける視線や歩みは、私も大事にしたいなと思うのです。
そしてここから、空前の辻が花ブームが始まります…!
空前の辻が花ブーム到来…!
60歳で久保田一竹さんが世に出てから、ここからがまた凄かった。
毎年のように個展を開催。
徹子の部屋などメディアにも登場。
国内だけでなく、海外の人からも「ぜひ展覧会を開催しましょう」と声をかけられパリ、ロス、ニューヨーク、イタリア、スペイン、ロンドン…と世界各国でも一竹辻が花展が開かれ続けます。
モデルさんを登用して、舞台芸術上で辻が花の魅力を表現し、一竹辻が花をハイヒールでといった着こなし提案をする「The SHOW」も開催します。
わずかな研究者しか知らなかった「辻が花」はきもの業界、そして一般女性まで一気に認知され、辻が花ブームが到来します。
辻が花ブームの人気と熱量はものすごく…「辻が花=一竹作品」と誤解され、高値で売買されることも多かったそうです。
こんなお話が自叙伝に書かれています。
あるとき、ニセ一竹展に出かけたことがあった。
会場はかなりの賑わいだったが、私が一竹であるとは誰も気づかない。洋服を着ていたせいかもしれない。
一人の係員が私に言った。
「これは久保田一竹さんが作ったものです」
怒りを抑え、私は訊ねた。
「一竹がつくったものなら、一竹という落款があるはずだけど見れば違うようだね」
「ハイ。これは一竹さんのもう一つの名前なんです」
これにはさすがの私もたまらなくなり
「私は久保田一竹です。久保田一竹ですけど、ここにある着物は私のつくったものではありません。」と言い放った。その係員の吃驚した顔といったらなかった。
(中略)
これからは以前にもまして自分の納得のいかない作品は妥協せず、絶対に世の中に出さないつもりで制作に打ち込み、偽物など吹き飛ぶものをつくろうと思った。
久保田一竹『命を染めし 一竹辻が花』より
仙人のように世を離れ、研究し続けていた時代から、一竹辻が花が完成してからの注目度や熱狂がものすごい。
自分のニセ展覧会に自分で行くほどの短期間でのブレイク…
ご自身でこんな大きな沈みも浮きもどちらも経験するなんて…すごい人生だと思います。
一竹さんは2003年、85歳で亡くなられました。息子さんの二代目やお弟子さんたちに引き継がれています。
2020年 東京国立博物館のきもの展でも、久保田一竹「交響」の15連作が展示されました。
図録の中でここだけ見開きになっている…!
一枚ずつにもタイトルがあり、一つずつ きものと完成しながら、山の稜線や湖の青が次のきものへ繋がって行き15枚繋がる連作になっています。
並べることで秋から冬への移ろう美しさ、広大な自然の美しさ、ひいては宇宙の美しさを表現しています。
近くにぐっと寄って見てみると、辻が花の技法で山肌には花が絞られ描かれている。
晩秋からじっくり一枚ずつ見て、冬からゆっくり戻りながら見て4〜5歩引いて全体を見て… と、きもの展で私が一番ゆっくり見た作品でした。
15枚連作で見られることもなかなかなく貴重な機会でしたが、この「交響」はなんと、80連作。久保田一竹さんご自身がご存命だったときに60作あたりまで完成し、残りはお弟子さんに託されたそうです。(サクラダファミリアみたいね^^)
また、久保田一竹さんの美術館が富士山の麓 河口湖にあります。
久保田一竹美術館
http://www.itchiku-museum.com/
1994年に開館しますが、一度経営難で破綻。(お金かかりそうだもの、、)2012年に国際ショディエフ財団がオーナーとなって今に至ります。
国際ショディエフ財団を設立したウズベキスタン出身パトフ・ショディエフ氏は、日本に造詣が深く、一竹作品をばらばらにしてはいけないと作品を一括購入し、美術館のオーナーになってくれたそうです。
ショディエフ氏のインタビュー
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47714
私は きものは人が着たときが一番美しいと思っていますが、久保田一竹さんの一竹辻が花は用の美とは違う、芸術であり、個人の所有するレベルを超えていると思っています。
河口湖の美術館には前々から行きたい行きたいと言い続けているのですが笑、2021年7月27日現在、コロナ対策の緊急事態宣言等の影響で休業されています。
再オープンされたら今度こそ河口湖に行って、どっぷり一竹辻が花に浸りたい!
着る人として、知っておきたいこと
最後に。着る人として辻が花との付き合い方について、私が考えていることを書きます。
幻の花と言われた辻が花。
今、多くの工房や作家さんがそれぞれの技術やデザインで、辻が花のきものや帯をつくっています。
久保田一竹さんの他に、京都の小倉家も辻が花の復活に尽力されたことで有名です。小倉家ではより古典的な辻が花を追求し、徳川家康など武将たちの辻が花衣装の復刻なども手掛けておられます。
この記事冒頭の、私が試着した辻が花の訪問着も、一竹辻が花ではありません。
辻が花 = 久保田一竹作品 ではない。
ただ、どの辻が花を選んでも、辻が花に命をかけた一竹さんのストーリーはぜひとも知って欲しいなと思う。
そして、辻が花だから全てすごいかというと、私はそうとは限らないと思う。「辻が花だから価値がある、買った方がいい」というような売り文句に出会ったら、気をつけた方が良い。
一竹辻が花も、「一竹」とうたいながら初代と二代目、その他…では作風もかなり異なります。「一竹」の落款も初代と二代目、その他…で微妙に異なり見極めはとても難しいものです。
一竹辻が花と言われなくても、そのきものが自分に魅力的で自分を活かしてくれるものか。
一竹辻が花と言われなくても、その値段を出したいか。
YES!と思えなかったら、買うべきではないと思う。
和創塾でみんなに伝えていますが、どのきものも「肩書き」で買うなということですね♪
そして、もしお家に「一竹辻が花」があったら、もうそのまま 大事にたくさん着てあげてください^^
一竹さんがThe SHOWで提案したように、丈を短くして着付けてハイヒールなんて着こなしもアリだと思いますよ♪
盛衰の波大きな辻が花の物語と、辻が花に連動するかのようにドラマティックな久保田一竹さんのお話。
知ることできものへの愛や想いが深まり、ますます素敵なきもの美人が増えますよう祈りながら書かせていただきました。
最後までお付き合いくださり誠にありがとうございました!
和創塾
〜きもので魅せる もうひとりの自分〜
主宰 上杉惠理子
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